まわり回ってペルーの地

青年海外協力隊2017年度1次隊 ペルーのイカという街での活動記録。環境教育という分野でゴミ問題に奮闘中。

言語を学ぶということについて考えてみた

今回は振り返りブログをおやすみして。最近のちょっとした出来事から考えたことの話題。

 

先日、パラグアイ隊員で訓練所時代に同じ語学クラスだった同期から電話をもらった。とても熱い隊員で、一緒に飲むと何時間でも語り合える素敵な同期だ。この日の電話もなかなか熱い内容だった。お互い電話越しに酒を酌み交わしながら。月曜の夜にも関わらずである。

その中でアルゼンチンの日本大使館職員の方の話しを聞いた。その方はパラグアイを中心に話されている南米先住民の言語グアラニー語やアンデス地域の土着言語であるケチュア語などのマイナー言語もなど含め、今まで学んだ言語は30にものぼるらしい。僕自身は今のところスペイン語でいっぱいいっぱいなので信じられないことだ。

そしてその方曰く、マイナー言語は2週間に1つ程の割合で消滅しているらしい。言語がなくなるということは、その言語で話している人々のアイデンティティーがなくなるということに等しい。そうは言っても、マイナー言語を学ぶのなら英語やスペイン語、中国語などのメジャーな言語を学んだほうがメリットはある。そしてその手の助言を実際にしてくる人は多いという。しかし、そういうことではないと言う。その方がマイナー言語を学ぶ意義は「目の前の人々とその人たちの言語で向き合いたい。その人たちの言語でしかわからない部分があると思うから」ということらしい。

 

この話しを聞いて、はじめに自分の頭に浮かんだのは日本の方言であった。例えば、地方出身の人はその方言でないと言い表せないことがあるらしい。つまり標準語に適当な言葉が見つからないと。

他にも沖縄の高齢の方から戦争体験の話しを聞いたとき、一番核となることにはやはり琉球語は欠かせないと言われたことがある。その言葉でないと自分の気持ちや体験したことを上手く表現出来ていないと感じるという。

 

少し話しは変わるが、最近オンラインのスペイン語学習を通して質問したテーマに「形容詞」がある。

辞書上では同じような意味の形容詞、例えばbonito, hermoso, bello, maravilloso これらはどう使い分けるべきなのか。またその他にこのような意味の形容詞はどんなものがあるか。

ここでは詳しい説明は省くが、文法的な法則とネイティブ独特の感性による使い分けが存在していた。

 

1年以上ペルーで生活をしているとスペイン語での会話もそこそこ出来てくる。日常生活ではほぼ困ることも無い(仕事ではまだまだ大変な場面はあるけれど)

それでもスペイン語で話していているとモヤモヤすることがある。それは、「もっと自分が今感じている事や考えを伝えたい」ということ。先ほどの形容詞の例でもそうだが、自分の頭で浮かんだことや心に思ったことを表現したい時、スペイン語では真に適当な言葉がまだわからない。これはニュアンスの問題でもあるし、単純に語彙力の問題でもあるのだが、本当にこの言葉で良いのか?と思うことがある。

おそらくこうした小さな積み重ねに知らず知らずストレスを感じているのか、たまに日本人と日本語で話すとすごく心地良く感じるのだ。日本語は素晴らしいなと改めて感じたりもする。

 

さて、ここで冒頭のマイナー言語を学び続けているアルゼンチン日本大使館の方の話し、そして語学を学ぶということについて個人的に思ったことを。

もし自分たちの言語がなくなってしまったらどうだろうか?例えば、日本語を公用語、日常言語として使用する場所がなくなってしまったら…

同じ状況でないにしても、任地に日本人1人という今の自分の状況はそれにとても似ている。つまり、自分の考えや思い、感情を100%表現できていないと感じる。そしてそうした状況にもどかしさを感じる。寂しくもあるしストレスにもなっているのだろう。まさに、日本人である僕は「日本語を使う」ということでアイデンティティーを形成し、維持しているのだ。大きく見れば、僕たち日本人は「日本語を使う」ことで文化やそのアイデンティティーを創り、維持しているのだろう。例えば「侘び寂び」のような考えを他の言語で適切に表現したり説明することができるだろうか?環境問題の世界でも、日本人の持つ「もったいない」という考え方は世界でもそのまま「もったいない」という言葉で紹介されている。

こうしたことはスペイン語だろうと英語だろうとグアラニー語だろうとケチュア語だろうと、それこそ日本の方言だろうと、その言葉を母語としてる人々には共通している事のように思える。

僕自身も正直「言語を学ぶということ」について、将来的に仕事や旅行などで「使える言語か・使えない言語か」という目で見ていた。しかし本来「言語を学ぶということ」は、もっと関わりたいと思う人々やさらに知りたいと思える国や文化、あるいはまだ知らない新しい世界と、より深く本質的な繋がりを得るためにすべきではないだろうか。それが「言語を学ぶということ」の大きな意義であると感じる。なぜなら、その言語でしか表現できないアイデンティティーが誰しもにあるはずだから。だからそこに、その言語がマイナーかメジャーか、使えるか使えないかというのは関係がないのだ。

 

僕自身はまだ、スペイン語で自分の感情や考えを100%表現できていない。ペルーの人々の感情や考えも100%理解できてはいないだろう。ネイティブでない自分には、どんなに勉強をしても難しいのかもしれない。

それでもスペイン語を学ぶのは、ペルーのことをもっと知りたいと思うから。そのためには日本語や英語を通してではダメなのだ。

せっかく出会えたペルーという国の人々や文化を、ペルーの言葉を通して知っていきたい。

 

同期からもらった話しと、スペイン語を学ぶ中でふと思ったことでした。